| (最終更新日:06/08/03) | ||
| クラブの歩み |
| コンサドーレ札幌の歩み |
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札幌市民30万人の署名がすべての始まり |
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バブルの終り、日本全国がまだJリーグブームの真っ只中にあった頃、北の都、札幌は蚊帳の外にあった。確かに、Jリーグの試合は、年に数試合開催されてはいたが、それはあくまで“サッカーを観戦する”という類のもので、それまでテレビで見ていたサッカーと、生と画面を通しての違いがあれこそ、なんら変わるものではなかった。 “おらが街のサッカーチームが欲しい”“おらが街のクラブを応援したい”、そんな声が、札幌の街の片隅で、ふつふつとわき上がるのに、それほどの時間はかからなかった。そんな時、94年に札幌青年会議所がJリーグ誘致を目指し“札幌にJリーグチームを”と行った署名に集まった数は31万人。札幌市民のおよそ6分の1の署名が集まったことになる。この31万という数は、98年末に悲劇に見舞われた横浜フリエ存続のために全国から集まった“最初の”署名の数とほぼ同数で(フリエ署名には最終的には60万人分ほど集まった)、当時の札幌市民のサッカーに対する認知度から考えると、すごい数の署名が集まったことになる。 この署名を受けて、95年には誘致組織として「札幌SJクラブ」が発足、その後、地道な活動を続けていくことになる。
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チームの誘致か新チーム結成か |
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Jリーグチームを札幌に作ろうとしたグループが最初に直面した問題は、クラブ自体をどの様にして調達するかであった。既にあるチームを母体にするのか、あるいは誘致するのか、それとも新チームを結成するのか。多くのJリーグチームのように既にあるチームを母体にするのか、あるいは、福岡や鳥栖のように誘致するのか、それとも、清水のように新チームを結成するのか、それが問題であった。現実の現場でどの様に話が進んだのかはわからないが、噂になっていたのは、まず、地域リーグである北海道リーグに所属していた『北電』を母体にする案、そして、当時Jリーグの二部リーグに位置づけられていたJFLに所属するチームを誘致する案など。既存のチームを誘致するのがJへの一番の近道という判断があった様で、その後JFLのチームを誘致する方向へ話が進んでいくことになる。この時、実際、誘致に動いていたグループは複数存在していたようで、東芝の他にJFLのチームのいくつかが候補に挙がっていた。そして最終的に、東芝が来ることが決まった。当時の東芝はリストラの一環としてサッカー部を廃部する方向で動いており、クラブ誘致を求める札幌側との思惑が一致した。
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てんやわんやの北海道フットボールクラブ事務局 |
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東芝の札幌移転が決ったものの、それをとりまとめる事務局はてんやわんやの状態がつづく。移転が決まってから、JFLシーズン開幕まで、わずかな数カ月しかなく、クラブをサポートする株主やスポンサー探し、クラブの強化、練習場やホームスタジアムの確保、さらに北国であるがゆえの雪対策もやらなければならないなど、仕事は想像以上に多かった。数少ないスタッフやボランティアで手伝う人達は、それこそ寝る間を惜しみ駆けずり回った。そしてこの急がしさに輪を掛けたのが、準会員申請の時期が早まったこと。当初、HFCは、最初の年はチーム作り、2年目に2位以内に入り、3年目のJ昇格を目指すと発表していた。これは、J昇格に先立ち必要な準会員申請の時期が、毎年秋の時期で、翌年にならないと認められなかったからである。ところが、この年からルールが変更になり、春にも申請が出せるようになった。これが通ると、その年のうちに準会員として認められ、2位以内に入れれば来年J昇格ということになる。札幌にとっては、瓢箪から駒のラッキーな規則変更であったが、このルール変更が明らかになったのが2月。しかも申請締切は4月中旬。このための準備がスタッフの忙しさに輪をかけた。
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そしてコンサドーレ札幌誕生 |
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てんやわんやの準備事務局であったが、サポーターはそんなことを知ることもなく、シーズン開幕に向けて期待を膨らませていた。クラブ設立に向けての仕事も着々と進み、東芝サッカー部の受け入れ法人の名前は北海道フットボールクラブ。北海道ならではの、ホームアイランドという言葉がある様に、北海道全体をホームタウンにしたいという願いも込めてこの名称がつけられた。そして、クラブ名が一般公募の中からコンサドーレ札幌に決定。北海道の人を意味する道産子に由来する北海道ならではのクラブ名が生まれた。 今でこそ、特例でクラブ名を都市単位でなくても認められるようになったが、当時はクラブ名は都市(町村)名というのが厳密に守られていたようで、運営会社の名前には北海道とついていても、クラブ名は札幌となった。そして、てんやわんやだった事務局もなんとか仕事をこなし、あとは始めてのシーズン開幕を待つだけとなった。
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一年目の挫折 |
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道民の期待を一身に背負い戦ったコンサドーレ札幌だが、一年目のシーズンは失意のうちに終わることとなる。開幕戦こそ快勝したが、その後、連敗。なんとか持ち直し後半戦に突入するも、アウェイとなった神戸、鳥栖戦で完敗。2位以内が絶望となり、コンサの最初のシーズンは幕を閉じた。 そんなシーズンであったが、北海道に初めて誕生したプロクラブチームに、初めて感じるホームタウンの響きに、そしておらが街のチームを持つことがいかにすばらしいことであるのかを、感じさせてくれた一年であった。記念すべき札幌での初の試合となった鳥栖フューチャーズ戦は、逆転サヨナラという、これ以上ないシナリオで勝利を飾ることになる。厚別に訪れたすべての人の心に、強いとか弱いとかに関係なくホームチームを応援するすばらしさを教えてくれた。 真のホームアイランドを目指して、コンサドーレ札幌は、最初の一歩をこうして北海道の大地に記した。
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悲願のJ昇格 |
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一年目の挫折を乗り越えるために、2年目のコンサドーレ札幌は大きく生まれ変わった。フェルナンデス監督を新たに迎え、選手も大量に補強された。クラブマスコットが生まれ、クラブロゴ、フラッグ、ユニフォームなど全て一新。中身も外見も全てリニューアルした。 新生コンサドーレ札幌は、JFLシーズン前に行われたナビスコカップで、なんとJリーグ勢を抑えて、予選リーグを突破。チームのでき上がりの良さを感じさせてくれた。そしてナビスコカップの勢いを持って突入したJFLは、連戦連勝。今や伝説となった厚別での天王山、川崎フロンターレ戦を大逆転で制したコンサドーレ札幌は、1位で前半戦を折り返す。後半戦をそのまま追いつかれることなく逃げ切り、97年10月22日、厚別で行われた大分トリニティ戦で勝利したコンサドーレ札幌は、ついに悲願のJ昇格とJFL優勝を決めた。
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跳ね返されたルーキーの挑戦 |
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念願のJリーグの舞台に立ったコンサドーレ札幌であったが、最初の挑戦はJリーグ勢の壁に阻まれることになる。挑戦者として先輩チームに挑むも、ことごとく跳ね返され、Jリーグ初勝利は、98年4月4日の室蘭でのガンバ大阪戦。ホームゲームでは、そこそこに戦うも、アウェイではまったく歯が立たず、結局18チーム中、1stステージは16位、2ndステージは10位で終える。しかも、成績不振を理由にフェルナンデス監督がシーズン途中で解雇されてしまった。 翌年から新たに始まるJリーグ2部制を控えて、この年のシーズンは入れ換え戦が実施されることになっていた。変則ルールの入れ換え戦参加チーム決定方法だったが、コンサドーレ札幌は残念ながらこの入れ換え戦に出場することになる。
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再びチャレンジャーへ |
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入れ換え戦が終わってみれば、4試合のうち1試合でも勝てれば、J1に残留できたのだが、そのたった1試合が勝てず、4戦全敗でJ2落ちが決ってしまった。J昇格の歓喜に沸いた10月22日からわずか一年とちょっと、98年12月5日にアヴィスパ福岡に1-3で完敗した瞬間、室蘭のスタジアムは大いなる悲しみにつつまれることとなった。初の二部落ちチームとして歴史に名を刻んだコンサドーレ札幌のイレブンとサポーターは、この日、雪の室蘭でJリーグ史上初めて味あうことになる悔しさを感じたのだった。 99年はJ2リーグでの再出発となったコンサドーレ札幌だが、新監督に岡田武史氏を向かえ、選手を補強し、再びJ1を目指し戦うことになった。クラブの運営は相変わらず苦しく、選手も若手主体に切り替わった。昇格をかけて戦うシーズンが、いかにつらく苦しいものであるかは、選手もサポーターも知っている。厳しい一年となるが、J昇格を目指して一緒に戦っていかなくてはならない。チャレンジャーとしての一年が再び始まった。
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甘くはないプロリーグの世界 |
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必ず一年でトップリーグへ戻ると岡田新体制の元1999シーズンを戦ったコンサドーレだが、そんな希望は見事に吹き飛んでしまった。この年から始まったJリーグ二部制。J1とJ2とに分けられたリーグは、二部といえどもプロリーグ。プロクラブのみで構成されるリーグは、かつて在籍したJFLとは比べようがないほどに厳しいものになっていた。技術だけでなく、スピリットも向上しているリーグでは、少しの気のゆるみも許さず、一癖も二癖もある選手や監督達がコンサの行く手を阻んでくれた。 開幕戦でこけたコンサドーレはその後、最後まで上昇機運にのれず、結局シーズン5位で終えることになる。J1のレベルも向上しているのだろうが、それ以上の速さでレベルが向上している二部リーグ。そのリーグで、もう一年魂を鍛えることになった。
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そして再びJ1へ |
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2年目に入った岡田コンサドーレは、1年目と同じ轍は踏むまいと、守備的なチームを作り上げ、二位以内に必ず入るために水も漏らさない布陣を引いた。Jリーグ二部制も2年目、Jリーグ創立時の10クラブである浦和レッズが落ちてくるなど、ますます厳しいくなるリーグ戦。それでも開幕戦を快勝で飾り開幕ダッシュに成功すると、その最大のライバル浦和レッズに6月にアウェイ駒場で貴重な勝利を収め、一気に波にのる。97年の対川崎フロンターレ戦しかり、最大のライバルとの直接対決で勝利を収めて波に乗るのがコンサの戦い方のようだ。 その後Jリーグ記録タイとなる16連勝を記録するなど、大崩れしなかったコンサドーレは、室蘭で悲しみに暮れてから二年、ついに2000年10月21日平塚の地にて、J1昇格を決める。そしてJ1昇格にJ2優勝で花を添え、再びJ1の舞台へ立つこととなった。
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J1残留への道 |
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コンサにとっては2度目のトップリーグでの戦いとなった2001年。このシーズンのチームの目標は開幕前からJ1残留だった。トップリーグで初めて戦った98年、一シーズン限りで降格した札幌にとって、残留を果たすことが、未知の領域に一歩足を踏み出すことになる。 サポーターの願いと不安が入り交じった開幕戦に勝利した札幌は、1stステージに波に乗る。2ndステージで失速したものの、前半の貯金がきいて年間順位11位でシーズンを終了。記念すべき初の残留を果たした。札幌ドーム開業効果もあって、このシーズン、クラブ史上最多の年間観客動員を記録した。シーズン終了後、3年間コンサドーレを率いた岡田監督が勇退した。
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二度目の陥落 |
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記念すべきアジアで最初のW杯が開催されたこの年は、コンサドーレ札幌がもっとも迷走した年になった。初の残留を果たし二年目のシーズンとなった02年、クラブの目標はチーム力の底上げ。J1に定住を目指すと同時に、数年後に上位をうかがえるチームにすること。 ところがシーズン初めから黒星が先行したコンサは、新監督の柱谷哲二監督を1stステージ途中で解任。二人目にイヴァンチェビッチ監督を迎えた。それでも勢いは上向かず、ついには監督自らがギブアップ宣言。そして三人目となるコーチから昇格した張外龍監督にチームの命運を預けることとなった。 コンサにとっては初のシーズン3人監督の年。「監督がチームを去るときは、やめるか首を切られるかのどちらかだ」の格言通り、シーズン途中の監督の退団はクラブの絶不調を意味する。3人の監督をもってしても、順位を浮上させることはできず、結局2ndステージ第11節にJ2降格が決まった。至上最も早く降格が決まったチームであり、そして初めて2度降格したチームとして歴史に刻まれることになった。
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七転び八起き |
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再びJ2リーグからJ1を目指すことになったコンサに一番ふさわしい言葉は「七転び八起き」。二度目のJ2、三度目の昇格レース。常に上を向き、前に進むつもりなら、何度でもはい上がってみせよう。例え、百回落ちようとも。 この年、ジョアンカルロス監督を迎え、新たにスタートをきったコンサドーレの目標はJ1昇格。一年での復帰を目指すことになった。札幌と同時に降格したのはサンフレッチェ広島。Jリーグ創立時の10クラブであるだけでなくJリーグで優勝経験もあるチームまでもが降格するという厳しさ。前回J2を戦った時にも増して、風雲急を告げそうな今年のJ2リーグ。 コンサドーレの新たな歴史への挑戦が再び始まった。
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コンサドーレ札幌は日本サッカー界の希望 |
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日本の端にあるコンサドーレ札幌、そんなクラブでありながら、コンサドーレ札幌が成功するかどうかは、Jリーグの理念が正しかったものであるかどうかを左右するほど重大である。Jリーグのクラブには、実にいろいろな所がある。お金があるクラブはおいといて、そうでないクラブがどのようにしてクラブを運営していくか、これまで実に様々なチャレンジが行われてきた。今でこそ、優等生と言われる鹿島はわずか6万人しかいない鹿島町をホームタウンとして生まれた。わずか6万人しかいないホームタウンに1万5千人収容できるスタジアムを作って、果たして人が入るのだろうか、そういった危機感を初めから持ってチームは生まれた。浦和は、最初どうしようもなく弱かった。Jリーグのお荷物と揶揄されること数年、それでも、今の浦和は地元にしっかり密着したチームになっている。清水は、Jリーグ発足と同時に参加したチームだが、親会社や前身のチームを持たない。Jリーグに併せてまったく新しいクラブとして誕生したクラブであり、全てゼロからのスタートであった。果たしてそんなチームがうまくいくのか、そんな周囲の心配の中での船出を経験している。横浜FCは、ソシオ制度という新しい試みに挑戦した。 これらのクラブのスタッフやサポーターは実に様々な頑張りをしているに違いない。そんな中にあって、コンサドーレ札幌が挑戦していることはなにか。人口こそ多いものの、札幌は日本の経済の中心大平洋ベルト地帯からは大きく外れている。いってみれば、田舎の都市にできたクラブであり、しかも大きな親会社やスポンサーを持たない。しかも雪国というハンディまでついてくる。「そんなクラブでもやっていけるのか」、それがコンサドーレ札幌に課された命題である。コンサドーレ札幌の株主の数は、他のJクラブに比して圧倒的に多い。大きな親会社がいないハンディを、小さな会社が集まって北海道経済界総出で支えることで補っている。サポーターも熱狂的で様々な支援をし、観客動員数は都会のチームにひけを取らず、そしてすばらしい。「様々な人の小さな力をいっぱい合わせればクラブは運営できる。」これを証明することがコンサドーレ札幌には求められている。 北国の貧乏チームでありながらサポーターの応援に惚れたと言ってチームを選んでくれる選手がいたり、札幌のサポーターはすごいと言われているのは、札幌のサポーターが熱狂的で素晴らしいためである。そんなコンサドーレ札幌を誇りに思いたい。
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| コンサガイド |
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